店頭に立った瞬間、炭火の香りが服に絡みついてくる。あの甘ったるい脂の香りじゃない。薪が高温で燃える時に出す、清冽な薫りだ。牛兵衛の看板を初めて見たのは雨の夜だった。軒先の暖簾が跳ねるたびに、店内のオレンジ色の灯りと、肉を焼く「ジュウッ」という音が漏れてきて、胃袋が無言で催促した。
大将が仕入れるのは但馬牛の血統を引く稀少部位。トレーサビリティーが壁にずらりと貼ってあるのを見て驚いた。母牛の鼻紋まで記載された証明書は、まるで牛の戸籍謄本のようだ。特に気に入ったのは「カイノミ」という首根っこの奥にある小さな部位。一頭から取れるのはわずか200グラムほどで、霜降りというより、筋肉の繊維の間に彫刻のように美しいサシが入っている。鉄板に乗せると、まるで生きているかのように肉が微かに震える。
焼き方の極意は「触らない勇気」だ。箸で頻繁にひっくり返す客を見かけるが、あれでは旨みが逃げる。厚切りのタン塩を網に置いたら、じっと我慢。肉の縁が透き通り、血のような肉汁が表面ににじみ出てくる瞬間を見逃さない。そのタイミングでひっくり返し、軽く塩をふる。焼き上がりにレモンを絞ると、熱された鉄板の上で果汁が一瞬で蒸発する「シュッ」という音と香りがたまらない。
秘伝のタレは二種類用意されている。深煎り胡麻の香りが立つ甘ダレは、赤身の旨みを引き立てるのに最適だ。だが私は断然「塩勝ち」を推す。岩塩、昆布、鰹節を三年以上熟成させたという琥珀色の液体を、ほんの一滴垂らすだけで、肉本来の甘みが口の中で爆発する。特にフィレのような上質な赤身は、わさびを少し添えてこの塩だけでいただくのが至福の時だ。
忘れてはいけない名脇役たち。自家製のキムチは乳酸発酵の酸味が強く、肉の脂をさっぱり洗い流してくれる。驚いたのは「冷やしトマト」の存在。氷水に浸けた完熟トマトに、ほんの少量の岩塩を振るだけなのに、焼肉の合間に挟むと、疲れた味覚が蘇る。最後の〆は必ず冷麺(ネンミョン)。出汁の効いた透明なスープに浮かぶ梨の千切りが、胃に染み渡る。
ある晩、隣に座った常連らしい老紳士が教えてくれた。「牛兵衛の肉はね、焼く前に30秒だけ常温に出すんだよ。冷蔵庫の冷気が抜けた頃合いが一番よく火が通る」と。大将も黙ってうなずいていた。こうした無言の知恵が、店の隅々に染みついている。
何度通っても飽きないのは、肉の質だけでなく「間」の心地よさがあるからだ。注文したカルビを焼いている最中、若い店員が「そろそろ裏返しますか?」とさりげなく声をかけてくれたことがある。初めての客には見えなかったが、私が肉をじっと見つめている様子を察しての配慮だった。焼き加減はまさに完璧で、箸でつまんだ瞬間、肉がほろりと崩れるのを感じた。
人生で迷った時、牛兵衛のカウンターに座る。炭火の前で待つ時間は、焦ってはいけないことを教えてくれる。肉が焼けるのをじっと見つめていると、余計な考えは灰になって消えていく。網の上で踊る脂の音が、何よりのBGMだ。最後の一切れを口に運んだ時、いつも思う。この世で解決できない問題はあっても、一口で全てを許せる瞬間があるのだと。
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